2009年06月14日

プラスチック字消しは字消し性能において

プラスチック字消しは字消し性能においてゴム字消しを大きく上回るものの、その性能は上記のように可塑剤によるもののため、柔らかく、減りが早く、耐溶剤性のない樹脂と融着するという特徴がある。そのため、シャープペンシルのキャップ内部や鉛筆の頭部などに付けられる消しゴムには、減りが少なく強くて折れにくいゴム字消しが用いられる。また、砂消しゴムも研磨砂を担持する接着力と紙を削る機械強度を要求されるため、天然ゴムで作られる。

消しゴムが存在する前の時代、パンを使っていた当時は字消しのパンを「消しパン」、そして食事のためのパンを「食パン」と呼んでおり、それが現在の「食パン」の語源となっているといわれているが、これは俗説である。消しゴムは1770年代には既に製品として存在していた。少なくとも日本に鉛筆という語ができた時代には、既に消しゴムもあったのである。そして、パンを字消しとして使用した時代でも、わざわざ字消し専用にパンが製造されたわけではなく、製造後時間が経過して食味に劣ったパンを使用していた。現在でも、木炭デッサンにおいて消しゴムは紙を痛めるため、油分の少ないパンを用いて描線を消去することがある。

プラスチック字消し
プラスチック消しゴムとも。プラスチック(主として、ポリ塩化ビニル)から生成した消しゴムで,最近の主流である.まとまるタイプ(まとまるくんなど)とハードタイプがある。

星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール
ゴム字消し
ラバー消しゴムとも。ゴムから生成されていた初期の消しゴム。
砂消しゴム(砂消し)
前述の通り、インクの浸透した部分を紙ごと削ることによって消す。最近では修正液や修正テープを使用することが多い。
練り消しゴム(ねりけし)
美術のデッサンやパステル画で使用される消しゴム。柔らかく紙を傷めない反面、消字性は劣る。変形させて利用することができ、消し屑が出ない。
また、消すことに主目的を置かない消しゴムもある。例としてはスーパーカー消しゴムや漫画のキャラクター(キン肉マン等)、へんてこキャラクター(噛み付きばあちゃん)、食べ物などを模した消しゴムが挙げられる。これらのものには、成形ディテールを優先するために可塑剤を減量して強度を増した事により、字消しとしての性能が犠牲になっているものがある。それらは文房具というより、文具流通を利用した、学校に持ち込める玩具という側面が強い。

2009年05月29日

家康は上杉領内を五箇所から攻撃することを

6月2日に東北・関東・北陸の諸大名に出陣を命じた。北の米沢口に最上義光・南部利直・戸沢政盛ら、北東の信夫口に伊達政宗、西の越後津川口に前田利長・堀秀治・溝口秀勝・村上義明ら、南東の仙道口に佐竹義宣を当て、家康は西国諸大名と共に南の白河口より一斉に攻め込む体制を採った。6月15日家康は秀頼より金2万両と兵糧2万石が下賜されて、秀頼の命を奉じる形で翌16日に大坂城を出陣、一旦伏見城に入った。この時の家康の様子を侍医である板坂卜斎は『慶長年中卜斎記』において次のように記している。
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千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌能く四囲を御ながめ、座敷に立たせられ、御一人にこにことお笑ひ御座なされ候。
家康の悲願である天下取りが現実のものになりつつある状況に、満足している節が伺える。この後鳥居元忠・松平家忠・松平近正らに伏見城守備を命じ、さらに山科まで見送りに訪れた島津義弘にも伏見城守備を依頼して江戸へと下る。一方佐和山城に蟄居していた三成は家康が江戸に下るとの報を受け、家康留守中を狙って挙兵し、西国大名を糾合して家康を討ち果たす決意を固め、動き始める。だが家康は天下奪取を果たすため反対派を一掃するべくわざと会津征伐を起こしたとも言われており、三成は敢えて家康の罠にはまったとも見られる。

また上杉景勝も、常陸の佐竹義宣と秘密同盟を結んでおり、白河口より攻め込んでくる家康を挟撃する計画があったとされる。他にも、会津領内の浪人などを雇ったり、会津神指城の築城や急速な各城の補強工事など、攻めよせる家康軍への迎撃体制を整えていった。

いずれにしても、家康の会津征伐によって戦局は風雲急を告げ始めた。

2009年04月25日

共産主義政党の一党独裁を確立した

第2次世界大戦後、アメリカ合衆国との対立が激化し、ソ連は東ヨーロッパの各国(ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニア)にソ連に従属する各国の共産主義政党が独裁支配する、社会主義国家を建設し、これらを衛星国家とした。抵抗の強かったチェコスロヴァキアでは非共産党系の政治家を暗殺、処刑するなどして、共産主義政党の一党独裁を確立した。ポーランドも、ソ連の圧力によりロンドン亡命政府系の政治家は逮捕されたり、亡命に追いやられ、1948年ポーランド統一労働者党(共産党)によるソ連式の一党独裁、社会主義体制へ移行した。 1950年には中華人民共和国と中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。さらに1955年にはワルシャワ条約機構を東欧諸国と結成した。1956年にはニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行ったためソ連に抑圧されていた東欧諸国に動揺が走ったが、ハンガリー動乱、ポーランド暴動などの自由主義運動を武力で鎮圧した。ハンガリー動乱では、ソ連はハンガリーの民衆2万人をソ連軍を投入して殺害し、ナジ・イムレ首相などのハンガリー政府閣僚を含む約1200人を処刑した。1968年のチェコスロバキアの自由主義運動「プラハの春」も、ソ連が率いるワルシャワ条約機構軍を投入して弾圧した。 1962年にはキューバ危機が起き、米ソ戦争の危機が高まったが、これを回避し、翌年にはケネディ大統領の間で、部分的核実験停止条約が結ばれた。フルシチョフ失脚後のコスイギン、ブレジネフの時代には中ソ紛争が勃発、さらにアフガニスタン侵攻などの事件が起きた。米ソ会関係は緊張状態にあり、1980年のモスクワオリンピックには西側諸国がボイコットとし、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国がボイコットをした。またロナルド・レーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と批判し、ソ連と軍拡競争を展開した。ソ連はアメリカなどNATO加盟国との冷戦や計画経済の行き詰まりにより次第に疲弊し、東欧諸国の民主化やソ連からの離反も始まった。1985年に書記長となったミハイル・ゴルバチョフはペレストロイカ政策を進めアフガニスタンからの撤退を決定。ジョージ・ブッシュ大統領との会談で冷戦の終結を宣言した。

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冷戦の終焉とソ連の崩壊
1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した。 これにより前身のボリシェヴィキ時代を含めると1917年以来74年間続いた、ソ連共産党の一党独裁による社会主義体制が名実共に崩壊した。

2009年04月08日

フォークソング

フォークソング(Folk Song)は、音楽のジャンルの一つ。元来は民謡を指すが、民謡から派生したポピュラー音楽をも含める。後者は主としてプロテストソングである。典型的には伴奏はアコースティックギターやバンジョーであり、ロックのように電気楽器は使わない。

英語圏で民謡という意味でFolk Musicというと、英語圏(やや範囲が広がっても欧州程度)の民謡に着目する傾向が強かったが、近年Folk Musicについて体系的に語られる際には、(Musicと結びつけない)Folkという単独の単語のもつ意味を反映して全世界の民族的なもの全般を扱うことが増えている。この意味では19世紀にジャンルが確立して20世紀に発展したような比較的新しい民族的音楽も含む場合がある。

フォーク・リヴァイヴァル [編集]
1940年代以降、アメリカでプロの作曲家が作った曲ではなく、民衆の間に昔から親しまれていた民謡を演奏するプロ・ミュージシャンの動きが台頭した。

1940年代のウィーヴァーズらhelloの活動は赤狩りの影響などにより広範な動きにはつながらなかったが、1958年にデビューしたキングストン・トリオがポップチャートで民謡をヒットさせたことを機にこの動きは全米に広がり、ハイウェイメン、ブラザーズ・フォア、ピーター・ポール&マリー、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ、ボブ・ディランなど多くのアーティストが登場した。

これらのアーティスト達は次第に民謡だけでなく、民謡に影響を受けたオリジナル曲も歌うようになる。生活苦などをテーマにした民謡に影響を受けた彼らは、人種差別反対、戦争反対などの社会的なメッセージを込めた曲を多く発表した。これをプロテストソングと呼ぶ。

1963年頃にはフォーク・シーンはオリジナル曲中心になっていった。

フォーク・リヴァイヴァル勃興期の演奏形態としては、バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースという楽器編成が多く、中心楽器はバンジョーであった。しかし、次第にバンジョーは使われなくなり、アコースティックギターが中心的な楽器となっていった。

同時期のロックンロールがシングル盤中心であったのに対し、フォークではLP盤主体の販売が行われた。これは、ポップミュージックのアルバム志向化のさきがけと言われる。

フォーク・シーンで活躍したボブ・ディラン、ロジャー・マッギン、ジーン・クラークなどの多くのミュージシャンは、1964年のビートルズのアメリカ上陸に影響を受け、エレクトリックギター、エレクトリックベース、ドラムスというロックの楽器編成(但し、アコースティックギターを併用する場合も多い)で演奏するようになった。これをフォークロックと呼ぶ。

主なアーティスト [編集]
レッドベリー
ウディ・ガスリー
ウィーヴァーズ
ピート・シーガー
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ
キングストン・トリオ
ハリー・ベラフォンテ
ランブリン・ジャック・エリオット
ハイウェイメン
ブラザーズ・フォア
ボブ・ディラン
ピーター・ポール&マリー
ジョーン・バエズ
フィル・オクス
ニュー・クリスティ・ミンストレルズ
ジャーニーメン
チャド・ミッチェル・トリオ
モダン・フォーク・カルテット
ジュディ・コリンズ
アーロ・ガスリー
ドノヴァン
ホセ・フェリシアーノ
ジョニー・ホートン
エヴァリー・ブラザーズ
キャロル・キング

日本のフォーク [編集]
日本においては、ポピュラー音楽としてのフォークソングは、ロックバンドのスタイルがグループ・サウンズとして発展したのとも似て、やや独自に日本の「フォーク」(日本では、「フォークソング」と「フォーク」とで、指し示すものが通常少し違い、通常は「フォークソング」という長い言い方はしない)として発展してまた意味範囲が広い。日本での初期のフォークはボブ・ディランやピーター・ポール&マリーの影響下にあるケースが多く、戦前にあった演歌(=演説歌:現在の演歌とは別物)のスタイルがそうした影響を受け、フォークと呼ばれるようになった。

余談だが、グループ・サウンズ流行期、グループサウンズと同じステージにフォークグループが立つことが珍しくなかった。現にGSとフォーク共演のコンピレーションアルバムは何枚も出ている。そして、日劇ウェスタンカーニバルと呼応した形で日劇フォークカーニバルという企画もあった。

日本におけるフォークの呼称には、さまざまなものがある(フォークシンガー参照)。

例えば、歌謡フォークとは、歌謡曲的な要素、すなわち、大衆性、非メッセージ性、アイドル性などを取り入れたフォークのこと。ニューミュージックに近い。さらに、歌謡フォークがヒットすると、産業フォークとも呼ばれたが、これは、ヒットすることにより音楽産業に取り込まれたフォークを意味する。ニューミュージックとほとんど同義と言ってよい。基本的には、(ニューミュージックに対する)蔑称である(なお、産業ロックも参照)。

他にも、叙情派フォーク、四畳半フォーク、セメントフォーク(セメントのように、どろどろとしたフォークの意味。21世紀に入って使われ始めた言葉だともいわれる)、メッセージフォークなどがある。

また、2000年代にはゆず、19などがブレイクしたことによってロックとフォークの融合体という意味で「ネオ・フォーク」なる呼称も使われていたが、最近では使用されなくなってきている。ただ、これらネオ・フォークはメッセージ性が薄いとして、吉田拓郎のような旧来のフォークファンにはあまり好かれていない傾向があるようである。特に音楽界屈指のフォークマニアとして知られるTHE ALFEEの坂崎幸之助は「ネオ・フォークは、やはり違う。まだまだ60?70年代のフォークの足元にも及ばない」と言った趣旨のことを自身の著書で語っている。

フォークソングへの批判として、タモリはかつて自己の番組等で「フォークを聞くやつは女々しい奴だ」と痛烈にフォークソングを批判した事があるほか(タモリの項目も参照)、上岡龍太郎も「フォークソングのお陰で従来の日本男児像が崩壊し女に媚びる弱々しい男が増えた」等と痛烈に批判したことがある。しかしこれは1970年前後一部のミュージシャンが興した社会的な音楽活動の把握が欠落しており部分的な捉え方のみの批評で短絡的な意見という見方がある。

歴史年表 [編集]
1965年、日劇フォークソングフェスティバル開催。
1966年、(ビートルズ来日。) マイク真木『バラが咲いた』。五つの赤い風船、活動開始。『フォークソング合戦』フジテレビではじまる。日劇フォークソングフェスティバルで、高石友也プロデビュー。
1967年、高石友也、大阪で初リサイタル。東京日比谷野外音楽堂で、遠藤賢司、小室等、フォーク・クルセダーズその他により「ニューポート・フェスティバル・イン・ジャパン」開催。フォーク・クルセダーズ『帰って来たヨッパライ』ヒット
1968年、フォーク・クルセダーズ『イムジン河』発売禁止。岡林信康『くそくらえ節』『がいこつの唄』で登場、『山谷ブルース』発売禁止。高田渡『自衛隊に入ろう』発表。フォーク・クルセダーズ解散。
1969年、はしだのりひことシューベルツ『風』、ビリーバンバン『白いブランコ』ヒット。東京新宿駅西口にフォークゲリラあらわれ、機動隊が動員され、ガス弾で弾圧。アンドレカンドレ(井上陽水)デビュー。高石友也さよならコンサート。
1970年、「インターナショナルフォークコンサート」開催、前夜祭に遠藤賢司、あがた森魚その他出演。吉田拓郎デビュー。第2回フォークジャンボリー開催。
1971年、はしだのりひことクライマックス『花嫁』ヒット。第3回フォークジャンボリー開催。東京世界歌謡祭で上条恒彦『出発の歌』グランプリ受賞。第1回「春一番」が天王寺野外音楽堂で開催。北山修、加藤和彦による「あの素晴らしい愛をもう一度」がヒット。
1972年、吉田拓郎『結婚しようよ』ヒット。
1973年、かぐや姫『神田川』ヒット
1974年、山本コータローとウィークエンドの「岬めぐり」ヒット
1975年、小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるフォーライフ・レコード設立。かぐや姫とよしだたくろうが中心となって「つま恋コンサート」開催。数万人の観客を動員。
1976年、
1977年、
1978年、
1979年、
1980年

ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ


2009年03月24日

停止位置に0m

停止位置に0m(作品毎に0m停車の判定条件が異なる、下記参照)で止めた時、ダイヤの誤差が±2秒以内ならGreat!、それ以外ならGoodとなる。さらに2以降では0cmで停車するとEXCELLENT!! となる。ただし3以降では定刻でないとGreat!を獲得できない。また、運転評価で減点される行為(非常制動停車など)を行った場合は加点されない。持ち時間制の作品ではGreat!を連続で取ると1秒ずつ獲得秒数が増えて行くが、0m停車に失敗するか運転評価で減点された場合は獲得秒数がリセットされる。ライフ制のがんばれ運転士!では4回0m停車を達成するとライフが1つ回復する。
停止位置0mの判定基準
アーケード用及びPS作品までは、停止位置の前後49cm以内。
山陽新幹線編では、停止位置の前後30cm以内。(ただし超特級の場合は前後10cm以内)
がんばれ運転士及び旅情編は、停止位置手前25cm以内。あくまで「手前」であるので、停止位置を1cmでも行き過ぎるとオーバーランとなり減点対象となる。
プロフェッショナル2では、前後99cm以内。(ただしダイヤの難易度によっては前後30cm以内)
FINALでは、停止位置前後30cm以内で「Fantastic!!」と表示される。
携帯アプリでは、常に停止位置前後99cm以内。
定通(2以降)
定刻に一秒の誤差もなく駅を通過した時。定時通過の略。連続で成功するとさらに1秒ずつ増えていく。初代「電車でGO!」には駅を通過するシチュエーションはあるが、通過時刻は指定されていない。プロフェッショナル2およびFINALでは、難易度によっては定通許容時刻が±5秒ほどある。旅情編のみ±15秒で定通となる。
定刻(3、旅情編)
3では定通と定着が統合され、各駅を通過もしくは到着する際のダイヤとの誤差が1秒以内の場合は、ボーナスが得られる。連続して獲得すると1秒ずつ獲得秒数が増えて行くが、定通 / 定着に失敗すると獲得秒数がリセットされる。定着の際は合格範囲に停車する必要が有る。ただし、たとえ定着しても運転評価で減点される行為(非常制動停車など)を行った場合はボーナスは獲得できず、獲得秒数はリセットされる。
旅情編の場合、±15秒に停車すればボーナスとなる。
隠し警笛
橋梁やトンネル進入前、保線員が作業している地点など、特定の場所で鳴らすとボーナスがもらえることがある。しかし1箇所でやりすぎると警笛過剰で減点される可能性があるので1箇所につき1回鳴らすのが理想的である。2では早めに鳴らすと加点が大きい(加点開始地点から5m以内で警笛を鳴らすと加点が最も大きくなる)。
旅情編の場合、踏切の手前で鳴らしたり坊っちゃん列車では発車時やホーム手前で鳴らすともらえる。
隠しドレーン(汽車でGO!)
発車時及び走行中特定の場所で鳴らすとボーナスがもらえることがある。
セクション通過(2以降。交流電化区間に限る。気動車は対象外)
セクション内で力行をせず通過した時。
ボーナスゲーム
特定の駅にノーコンティニューで到着すると車両を連結する(3の鉄人モードでは「駅進入時にホームの端に立っている人に警笛を鳴らす」、「ある地点を特定の速度で通過する」)ボーナスゲームが始まり、それに成功するとボーナスがもらえる。
踏切事故回避成功
踏切事故でトラックを無事に回避した時は、5 - 15秒のボーナスがもらえる(ただし、名鉄編は300秒)。逆に激突したときは大幅な減点となってしまう。また、名鉄編の美濃町線・犬山橋と旅情編の伊予鉄道・京福電鉄・函館市交通局では路面区間で車が通ることが日常茶飯事のため、ボーナスはもらえない。しかし衝突すると減点される。
緊急車両回避
名鉄編の美濃町線では、緊急車両がサイレンを鳴らしながら近づいて来る地点があるので通過するまでに停車し、通過し終わるまで待つとGoodとなり加点される。通過時に動いていると減点される。
一時停止ボーナス(旅情編のみ)
函館市交通局の谷地頭手前の下り勾配のカーブで一旦停止するともらえる。
音声喚呼入力(電車でGO!64で音声認識システム使用時)
信号が表示されてから一定時間内に「進行」などを正しく喚呼した時、1秒獲得できる。
制限速度確認(携帯アプリ)
制限速度予告が表示されて一定時間内に0 - 9(ダイアル)ボタンを入力した時。
連結ボーナス
ミニゲーム。一定時間内に決められた順序・速度で連結を成功させればクリアとなりボーナス点がもらえる。さまざまな列車が連結できる。

裏技 [編集]
信号に引っかかった際に、ブレーキをかけながらスタートボタン(プレイステーション・プレイステーション2ではセレクトボタン、Windows版ではエンターキー、携帯アプリは「警笛」対応ボタン)を押すとATS確認のために警告音が鳴り、その場での非常停止を回避することが出来る。ただし、携帯アプリなどはこれを使っても、警告音が鳴るだけで意味がない。このモードは、アーケード版高速編から実装されている。
これを使うと次の信号現示が厳しくなる(減速なら注意・注意なら警戒または停止(3灯式の場合)・警戒の場合停止)ことが多いが、それを逆手に取った楽しみ方、攻略法もある。場合によっては実際の列車のように警報ベル音を鳴らしながら駅に停車することもできる。ただし、(極一部の路線、例えば電車でGO!2 3000番台の東海道本線普通などを除く)ほとんどの路線ではプレイ中の路線走破は絶望的になるため、あくまで大道芸的なものである。3の中央線快速・山陰本線を鉄人モードでプレイするとそれぞれ東京駅・京都駅の場内信号が注意になっていて、駅構内進入の際はATS確認を行わなければならない。
ゲーム中にスタートボタン(PS版などではセレクトボタン・Win版ではエンターキー)を押すと、残り距離を表示するメーターが隠れ、より難易度の高い運転を行うことができる。この裏技は、厳密には裏技とは言えず、一部のバージョン(FINALなど)では、説明書に書いてある。始発駅を発車する前にメーターを隠し、終着駅到着までメーターを隠したままにしておくと、一部バージョンではランキングでPROという称号がつく。なお、見出しに「裏技」とあるのに、上記に「厳密には裏技とは言えず」としているのは、一部ソフトでは説明書に記載されていないためである。
アーケード版高速編3000番台では、秋田新幹線大曲→盛岡の路線において、路線選択する際に押すボタンをスタートボタンか警笛ペダルでするかによって、雫石を停車または通過のダイヤを選ぶことが出来る。停車はスタートボタン、通過は警笛ペダルであり且つブレーキを解除(緩解)状態にしておく。ただし、一度でもスタートボタンを押した場合は停車ダイヤとなる。選択成功の見分け方は、選択直後の路線紹介の際にE3系が在来線区間を走っていれば停車、高架を走っていれば通過ダイヤとなる。
アーケード版高速編3000番台では、秋田新幹線大曲→盛岡の線路際5か所になまはげが佇んでおり、近くで警笛を鳴らすと手を振ってくれる(順に大曲発車後左側、羽後四ツ屋手前左側、神代通過後左側、刺巻手前右側、田沢湖発車後右側)。
電車でGO! プロフェッショナル仕様では全ての列車で、難易度をベリーハードかつノーコンティニューでクリアすると、セレクトボタン(Windows版ではスペースキー)で天気を自由に変えることができる。天気は「晴れ・曇り・雨・雪・雷・?(5つのうちのどれか)」がある。
田沢湖線やほくほく線などの一部路線では信号場で列車交換を行うため、停止信号が現示されている場合がある。この場合は停止信号を喚呼した時点で停車すると信号の現示が変更されるが、停止信号が現示されている信号機の手前に停止目標が設置されており、停目の十分近くで停車すると列車交換を見る事が出来る(列車交換の間は時刻は進まないためタイムロスは発生しない)。列車交換を見たい場合は過走して停止信号を踏まないように注意する必要がある。
ほくほく線の一部路線では、信号場の手前の駅に早着すると信号場の場内信号が減速で出発信号が停止になる場合があり、停目に合わせて停車すると列車交換が発生する。
電車でGO! プロフェッショナル仕様で、秋田新幹線こまちの大曲駅か盛岡駅、東海道本線の臨時特急第一こだまで横浜駅に通常よりダイヤが乱れて到着しても、次の区間での信号変化が発生しない。また、発車するときは定刻どおりに発車できる。これは、実際のダイヤに合わせて、ゲーム内のダイヤとのズレを修正しているためである。

キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

2009年03月09日

ジョン・ディクスン・カー

ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr, 1906年11月30日 - 1977年2月27日)は、アメリカ合衆国の推理作家。カーター・ディクスン(Carter dickson)、カー・ディクスン(Carr Dickson)、ロジャー・フェアベーン(Roger Fairbairn)という別名でも作品を発表している。名前の頭文字をとってJDCと呼ばれることもある。

1906年ペンシルバニア州のユニオンタウン(Union town)に生まれる。父は連邦議会下院議員や郵便局長を務めた弁護士のウッダ・ニコラス・カー。地元の高校を卒業してハヴァフォード大学(en:Haverford College)に入学した。この頃から学園誌に歴史小説や推理小説を発表するようになる。しかし、数学の単位が取れず2年で中退すると海を渡ってしばらくパリを遊学した。

帰国した後、1930年に発表したパリを舞台にした第一長編『夜歩く』が評判となり、以後は作家の道を歩むようになる。1932年にはイギリス人のクラリス・クリーヴスと結婚してイギリスに渡り、第二次世界大戦後にかけてイギリスで暮らした。江戸川乱歩が激賞した『帽子収集狂事件』や『三つの棺』といった代表作が執筆されたのもこの頃のことである。また経済的な理由からあらたに別のペンネーム(カー・ディクスン、後にカーター・ディクスン)でも精力的に作品を発表していった。

1936年にカーはアメリカ人として初めてイギリスのの推理作家団体であるディテクションクラブに招聘される。推薦者はカーの筆力をいち早く認め、書評で絶賛したドロシー・L・セイヤーズとアントニー・バークリーでここで同時代の多くの作家たちと親交を深めることになる。

カーはアメリカに一時帰国したのち、戦争勃発と共にイギリスへ帰り、BBCのラジオドラマやプロパガンダ放送などを手がけた。このうちラジオドラマは後年の短編集にその脚本が収められている。

第二次世界大戦中は家を爆撃されて失い、戦後も物不足できびしい生活が続いたため、1947年にアメリカのママロネックに移住した。アメリカではエラリー・クイーンやクレイトン・ロースンらと親しくなり、ロースンとは同テーマで競作をし、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』では書評を担当した。シャーロック・ホームズシリーズの熱烈なファンであったカーは作者アーサー・コナン・ドイルの次男のエイドリアン・コナン・ドイルによる依頼でドイルの評伝を執筆し、エイドリアンとホームズのパスティーシュを合作した。

その後タンジールに住んだり、イギリスに戻ったりしたが、結局アメリカに帰り、1977年にガンで亡くなった。カーに関する評伝や研究書は数多い。

登場する探偵
1930年の処女長編『夜歩く』から数作はアンリ・バンコランというフランス人探偵が活躍したが、悪魔的な性格から読者の共感を得られず、その後に創造した1933年の『魔女の隠れ家』でデビューしたギデオン・フェル博士と、1934年の『プレーグコートの殺人』でデビューしたヘンリー・メリヴェール卿(通称H・M卿)の方が有名である。その他短編ではロンドン警視庁D3課長マーチ大佐が登場する。なお、メリヴェール卿ものとマーチ大佐もののほとんどはカーター・ディクスンのペンネームで発表された。フェル博士はG・K・チェスタトンを、H・M卿はウィンストン・チャーチルをモデルにしているといわれ、本のカバーもその二人を模して描かれている。

作風
密室殺人や人間消失をはじめとする不可能犯罪をテーマにした作品が多く「不可能犯罪の作家」の異名を持つ。1935年の『三つの棺』の密室講義は、密室トリックを分類したものとして単独でも名高い。初期作品には敬愛したG・K・チェスタトンとエドガー・アラン・ポーの影響を受けた怪奇色が強く、複雑なトリックを使用した作品が多いが、第二大戦中ごろは怪奇色の薄い、より単純なトリックを使った作品が多くなってくる。1950年の『ニューゲイトの花嫁』以降は、上記の探偵が登場しない歴史ミステリも増えた。こちらは謎解きという点での評価はあまり高くないが、綿密な資料読み込みにより、当時の風俗などの描写が生き生きと描かれている点で評価が高い。

また『連続殺人事件』や『盲目の理髪師』それにH・Mの登場する作品などはドタバタ喜劇(ファースものと呼ばれる)を主軸にした笑い溢れるものに仕上がっている。そのユーモアゆえに新進作家時代にはユーモア作家P・G・ウッドハウスの変名ではないかと書かれたこともある。上記のトリックメーカーとしての顔と併せて、常に読者に刺激を与えるというのが作風の基本姿勢である。

アメリカの作家であるがイギリスに長く在住し作品の舞台もほとんどがイギリスのため、名鑑などにはしばしば「米?英作家」と記載される。

ウィリアム・ブリテンの作品に『ジョン・ディクスン・カーを読んだ男』という、カーの作品をパロディーにした短編ミステリーがある。

主な作品リスト
とくに注記がない限り本名名義の作品・原題は基本的に米題で『』内は最新の邦題

長編
アンリ・バンコランもの
1930年 It Walks by Night『夜歩く』
1931年 The Lost Gallows 『絞首台の謎』
1931年 Castle Skull 『髑髏城』
1932年 The Corpse in the Waxworks 『蝋人形館の殺人』
1937年 The Four False Weapons 『四つの凶器』
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

1933年 Hag's Nook 『魔女の隠れ家』
1933年 The Mad Hatter Mystery 『帽子収集狂事件』
1934年 The eight of Swords 『剣の八』
1934年 The Blind Barber 『盲目の理髪師』
1935年 Death-Watch 『死時計』
1935年 The Three Coffin 『三つの棺』
1936年 The Arabian Nights Murder 『アラビアンナイトの殺人』
1938年 To wake the Dead 『死者はよみがえる』  
1938年 The Crooked Hinge 『曲がった蝶番』
1939年 The Problem of the Green Capsule 『緑のカプセルの謎』
1939年 The Problem of the wire Cage 『テニスコートの謎』
1940年 The Man Who Could Not Shudder 『震えない男』
1940年 The Case of the Constant suicides 『連続殺人事件』
1942年 Death Turns the Table 『猫と鼠の殺人』
1944年 Till Death Do Us Part 『死が二人をわかつまで』
1946年 He Who Whispers 『囁く影』
1947年 The Sleeping Sphinx 『眠れるスフィンクス』
1949年 Below Suspicion 『疑惑の影』
1958年 The Dead Man's Knock 『死者のノック』
1960年 In Spite of Thunder 『雷鳴の中でも』
1965年 The House at Satan's Elbow 『悪魔のひじの家』
1966年 Panic in Box C 『仮面劇場の殺人』
1967年 Dark of the Moon 『月明かりの闇』

ヘンリー・メリヴェール卿もの(カーター・ディクスン名義)
1934年 The Plague Court Murders 『プレーグ・コートの殺人』
1934年 The White Priory Murders 『白い僧院の殺人』
1935年 The Red Widow Murders 『赤後家の殺人』
1935年 The Unicorn Murders 『一角獣殺人事件』
1937年 The Punch and Judy Murders 『パンチとジュディ』
1937年 The Peacock Feather Murders 『孔雀の羽根』
1938年 The Judas Windows 『ユダの窓』
1938年 Death in Five Boxes 『五つの箱の死』
1939年 The Reader is Warned 『読者よ欺かるるなかれ』
1940年 And So to Murder 『かくして殺人へ』
1940年 Nine-and Death Makes Ten 『九人と死で十人だ』
1941年 Seeing is Believing 『殺人者と恐喝者』
1942年 The Gilder Man 『仮面荘の怪事件』
1943年 She Died a Lady 『貴婦人として死す』
1944年 He Would'nt Kill Patience 『爬虫類館の殺人』
1945年 The Curse Of The Bronze Lamp 『青銅ランプの呪』
1946年 My Late Wives 『青ひげの花嫁』
1948年 The Skelton in the Clock 『時計の中の骸骨』
1949年 The Graveyard to Let 『墓場貸します』
1950年 Night at the Mocking Widow 『魔女が笑う夜』
1952年 Behind the Crimson Blind 『赤い鎧戸のかげで』
1953年 The Cavelier's Cup 『騎士の盃』

歴史ミステリ
1934年 Devil Kinsmere (ロジャー・フェアベーン名義)
1936年 The Murder of Sir Edmund Godfrey 『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』
1950年 The Bride of Newgate 『ニューゲートの花嫁』
1951年 The Devil in Velvet 『ビロードの悪魔』
1955年 Captain Cut-Throat 『喉切り隊長』
1956年 Fear Is the Same 『恐怖は同じ』 (カーター・ディクスン名義)
1957年 Fire, Burn! 『火よ燃えろ!』
1959年 Scandal at High Chimnys 『ハイチムニー荘の醜聞』
1961年 The Witch of the Low-Tide 『引き潮の魔女』
1962年 The Demoniacs 『ロンドン橋が落ちる』
1964年 Most Secret 『深夜の密使』
1968年 Papa Là-Bas 『ヴードゥーの悪魔』
1969年 The Ghosts' High Noon 『亡霊たちの真昼』
1971年 Deadly Hall 『死の館の謎』
1972年 The Hungry Goblin 『血に飢えた悪鬼』

ノン・シリーズ
1932年 Poison in Jest 『毒のたわむれ』
1934年 The Bow String Murders 『弓弦城殺人事件』 (カー・ディクスン、のちにカーター・ディクスン名義)
1937年 The Burning Court 『火刑法廷』
1937年 The Third Bullet 『第三の銃弾』 (カーター・ディクスン名義)
1942年 The Emperor's Snuff-Box 『皇帝のかぎ煙草入れ』
1952年 The 9 Wrong Answers 『九つの答』
1956年 Patrick Butler for the Defence 『バトラー弁護に立つ』

合作長編
1939年 Fatale Descent 『エレヴェーター殺人事件』(ジョン・ロードとカーター・ディクスン名義で合作)

リレー長編
1953年 Crime on the Coast 『殺意の海辺』

1940年 The Department of Queer Complaints 『不可能犯罪捜査課』
1947年 Dr.Fell,Detective and Other Stories
1954年 The Third Bullet and other Stories
1963年 The Men Who Explained Miracles

合作短編集
1954年 The Exploits of Sherlock Holmes 『シャーロック・ホームズの功績』 (エイドリアン・ドイルと合作)

1949年 The Life of Sir Arthur Conan Doyle 『コナン・ドイル』

2009年02月20日

ユーリイ・ガガーリン

ガガーリンはモスクワ西方のグジャーツク市(1968年にガガーリン市に改称)に近いクルシノで生まれた。両親はコルホーズ(集団農場)の労働者であった。しばしば「両親は農民であった」といって労働者階級出身の英雄というガガーリン像を強調する表現があるが、実際のガガーリンの母親はインテリで読書家であり、父親も教養のある腕利きの大工であった。ユーリは四人兄弟の三人目で、幼いガガーリンの世話は姉が行うこともあった。他のソ連国民同様、第二次世界大戦が一家に大きな苦しみをもたらした。二人の兄は1943年にドイツへ赴き、戦争が終わるまで戻らなかった。少年時代のガガーリンへの評価は、まじめで勉強家だが、茶目っ気もあるというものだった。少年時代の数学の教師がパイロットとして従軍したことが、ガガーリンの生き方に影響を与えることになる。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

金属工場の見習いとして働き出したガガーリンは優秀であったため、技術教育を受けるべくサラトフの学校へ送られた。そこで彼はエアロクラブに入り、軽飛行機での飛行を楽しんだが、徐々に飛ぶことの楽しさにとりつかれるようになった。工業学校を卒業したガガーリンはパイロットを志し、1955年にオレンブルグにあった空軍士官学校に入った。1957年にはオレンブルグで出会ったヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚している。卒業後、ノルウェー国境に近いムルマンスクの基地に配属された。北欧上空の大気状態は不安定でパイロット泣かせの土地である。当時の記録によるとガガーリンの身長は158cmであった。

ソ連における宇宙開発
1960年代、宇宙開発が本格的に始まったことに伴って宇宙飛行士の選抜が始められ、ガガーリンも20人の候補生の一人に選ばれた。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。

ついに世界初の有人宇宙飛行が行われるとき、その候補はガガーリンとゲルマン・チトフのどちらかにしぼられた。二人とも訓練結果が優れていただけでなく、身長が高くなかったことが決め手となった。というのも最初期のヴォストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間には入ることが難しかったからである。最終選考の結果、選ばれたのはガガーリンだった。この決定は政府の上層部によって行われたが、おそらく決め手となったのはガガーリンの温和で社交的な性格と、(労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい)ユーリというロシア的な名前、ガガーリンの生い立ちにあったと思われる。 (ヴォストーク宇宙船に乗る際、靴を脱いだ事が決め手という説もある。)なおゲルマン・チトフは後にガガーリンに継ぐ二番目の宇宙飛行士になっており、自ら機体を操縦し大気圏外で食事をするなどの実験をして記録映像にもそれが残された。

宇宙へ
ガガーリンの画像1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2(ボストーク1号として知られる)で世界最初の有人宇宙飛行に成功した。このときのコールサインは「ヒマラヤスギ」(ロシア語:Кедр)であった。後にメディアがガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」といったと報じたが、その種の発言は記録には一切残されていない。ガガーリンを乗せた宇宙船は地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱で1周しロシア領内の牧場に不時着した。

飛行中にガガーリンは自分が中尉から少佐へ昇進したというタス通信のニュースを聞いた。ガガーリンも喜んだが、このような発表を飛行中のガガーリンに伝えた本当の理由は、当時の政府高官がガガーリンが生きて帰還する可能性が低いと考えていたからだといわれている(初期のボストークは、大気圏に再突入後、高度7000mで飛行士を座席ごとカプセルから射出して一人パラシュートで降下させるという、大きな危険を伴うものだった)。

地上に無事帰還するとガガーリンは直ちに兵に迎えられ保護される。不時着地点の牧場に杭が打たれて一躍「時の人」となった。ニキータ・フルシチョフとの対面ではガガーリンはこのような計画を成功に導いた共産党の偉大さを賞賛した。ガガーリンは宣伝旅行で世界各地を回ることになった。フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めたミサイル力増強計画の成果を示すものであった。

地球帰還後のガガーリン・突然の事故死
宇宙からの帰還後、有名人となったガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅した。ガガーリンは激変した自分の環境にもうまく適応したかのようであったが、徐々に精神的に弱り、酒を飲むようになった。1961年には自傷行為を起こしている。

このような精神的試練を乗り越えたガガーリンは1962年以降、ソビエト連邦議会で代議員を務めたが、後に宇宙開発の拠点都市「星の街」に戻って宇宙船のデザインに携わった。1967年にはソユーズのバックアップクルーに選ばれたが、当のソユーズは帰還時にパラシュートが開かず、パイロットのウラジーミル・コマロフは転落死している。

その後、ガガーリンは飛行指揮官となるため、訓練の一環として飛行訓練を再開する必要にせまられた。ところが1968年3月27日、教官とともに搭乗したMiG-15UTIでキルザッフ付近を飛行中、墜落死した。事故の原因は長らく不明とされてきたが、1986年に発表された調査資料によれば付近を飛行していたSu-11迎撃機が高速飛行したため、その衝撃波に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性があるという。気象条件も悪かったため、ガガーリンと教官の二人をもってしても立て直しは不可能だったと思われている。

ガガーリンが搭乗時に飲酒していたといううわさも流れたが、彼は飛行前のメディカルチェックに合格しており、死後行われた調査でもガガーリンの飲酒を示す一切の証拠は見つからなかった。

2005年になって発表された新説は、コックピットの通気口が故障か、前の搭乗者のミスで開いたままになっており、そこから酸素が漏れ出して低酸素状態になり、操縦不能状態に陥ったとしている。ロシアの報道機関はガガーリンは最後まで飛行機のコントロールに努め、飛行機が学校に墜落する事態を避けたというが、真実かは分からない。

ガガーリンをめぐる噂
ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは今でも疑問の余地がないが、いまだにソ連ではガガーリン以前に二度有人宇宙飛行が試みられたが国境を越えて中国に不時着してしまう等で失敗し、隠蔽のために永遠の秘密とされたという噂もある。この話はしばしば著名な飛行機設計者イリューシンの息子ウラディミール・イリューシンの名前と結びつけて論じられる。ソビエト政府は宇宙計画のイメージダウンを恐れてすべてを秘密にしているというのである。

ロバート・ハインラインは1960年に書いた記事「プラウダは真実を意味しているか?」の中で、1960年5月15日の出来事として次のような話を記している。それによればハインラインがソ連を旅行中、赤軍兵士たちが有人宇宙ロケットが打ち上げられたということを熱く語っていたという。しかし、後から政府高官に聞いても否定され、ビリニュスで見たプラウダにも何も記事がなかったというのである。ハインラインは実際に有人宇宙ロケットが打ち上げられたが失敗したため、封印されたのだと考えた。

ガガーリンの伝記『スターマン』によれば、このようなうわさが広まった背景には、有人宇宙飛行に先駆けて行われた無人試験飛行で、人形を乗せ、通信のチェックを行うために人の声を吹き込んだテープをのせていたことが原因ではないかと推測している。もっとも、ガガーリンの宇宙飛行時、打ち上げまではその事実は明らかにされなかったこと等を挙げ、ソ連の事実隠蔽を疑う意見もいまだに存在する。

しかし、打ち上げ成功直後にソ連政府は「ガガーリン少佐を乗せたヴォストークが軌道周回中」と発表している。この事は、ソ連政府がガガーリンの安全な帰還に相当な自信を持っていたことの現われとも受けとめられ、もしそれ以前に有人飛行に失敗しているなら、そのようなタイミングでの発表は考えにくい。この事も、噂を否定する間接的な証拠と言える。

何より、これまで様々な噂が流れていたにも関わらず、それらを証明する物的証拠は何一つ出ていない。

当時は冷戦という特異な社会構造の中で、いわば敵国であったソ連への漠然とした不信感が存在していた。そのため、そのような感情に関連して「ソ連が事実を隠蔽している」との噂が産み出されたのであろう。さらにガガーリンは日本にも来ていたが、発言に不可解な面が目立った事から不審に見られ「秘匿している機密を守るための替え玉では」との報道もあった。

ガガーリンの言葉
「地球は青かった」
ガガーリンの言葉として有名な「地球は青かった」は、正しくは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」という説もある。もっとも、この種の報道は他にもいろいろあり、1961年4月13日の毎日新聞は「12日夜のモスクワ放送が伝えたイズベスチヤ特派員の報告」として「空は非常に暗かったが、地球は薄青色だった」との発言を報道している。 ガガーリンの著書「宇宙への道」にも、地球の描写として 「地球はみずみずしい色調にあふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた」のような記述が見られる。

「神はいなかった」
ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがあるが、地上との交信記録の中にこの言葉は出てこない。他に 「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されるが、出典のはっきりしない言葉である。

ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書"Two sides of the moon"(『アポロとソユーズ』、p295)の中でガガーリン自身が好んで語ったアネクドートとして次の話をあげている。おそらく、この中の言葉が彼自身の言葉として一人歩きしているのではないかと思われる。

宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。

総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」
ガガーリン「見えませんでした。」
総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」
しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
ガガーリン「見えました。」
フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。」(レーニン主義は宗教を否定している)

エピソード
地球生還後にフルシチョフから勲章を授与されるときに、ガガーリンの軍服の生地が余りに硬く、フルシチョフは勲章をガガーリンの軍服に付ける事が出来ず、直接手渡したと言われている。真偽は不明だが、重工業と軽工業の技術差を揶揄するときに使われている逸話である。

2009年02月04日

松浦(まつら)氏水軍の松浦党の惣領氏

松浦(まつら)氏は、中世には肥前の水軍の松浦党の惣領氏。

嵯峨源氏・渡辺党
諸般の松浦家系図によると嵯峨源氏渡辺氏の祖の源綱(渡辺綱)の孫の源久(渡辺久、松浦久)を祖とするとされるが、系譜については諸説ある。

松浦氏は、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津国の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる。

松浦久(渡辺源次)
祖の松浦久(渡辺久、源久)は、渡辺綱(源綱)の子の奈古屋授(渡辺授、源授)の子とされ、松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり定住し、松浦、彼杵郡及び壱岐の田およそ2,230町を領有して梶谷に住み、松浦久と名のる。次いで検非違使に補され、従五位に叙された。松浦久は、源太夫判官と称して松浦郡、彼杵郡の一部及び壱岐郡を治め、ここに肥前松浦党の歴史が始まる。

松浦党の展開
松浦氏の系譜については約30種類ほどの、それぞれに内容が異なる系図があり、松浦氏全体の立場からの正確な系譜を知ることは不可能に近く、一族や子孫の個々が、相互に異なるにせよ各自の系譜の確認をすることしか出来ないと言っても過言ではない。一説には、

松浦久の子は、松浦正、松浦安、松浦直、波多持、石志勝、荒久田聞、佐志調。

上松浦党は松浦正、下松浦党は松浦直が祖である。直の子には、松浦清、有田栄、大河野遊、峯披、山代囲、値賀連がある。

東国御家人との確執
平安時代は松浦党が盤踞した地域は平家の知行国であるため、松浦氏は平家の家人となっていたが、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭となる。しかし、源頼朝は、平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして少弐氏、島津氏、大友氏を守護として九州に送り、松浦氏は、同じ環境の秋月氏、蒲池氏などと同じく、これらの新参の東国御家人の「下り衆」の傘下に置かれる。

元寇の際は、松浦党の惣領だった佐志氏の佐志房や、山代氏の山代階などが奮戦する。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

松浦氏の一族
波多氏
鶴田氏
牟田部氏
相知氏
馬場氏
伊万里氏
志佐氏
佐志氏
有田氏
大河野氏
峯氏
山代氏
御厨氏
八並氏
値賀氏
斑島氏
神相浦松浦家(惣領家)
平戸氏 → 平戸松浦家

平戸松浦氏
松浦党のうち下松浦党の本来の嫡流は松浦直の嫡男の松浦清の末裔の一族であるが、松浦氏の数多くの傍流のうち、松浦直の五男の峯被の子孫から平戸を本拠とする平戸松浦家(平戸氏)が興った。松浦弘定、松浦興信の時代には内紛もあったものの次第に惣領家や他の庶家をしのぐようになり、興信の子の松浦隆信の代には、惣領家や上松浦党をも従えて松浦半島を統一する戦国大名となった。隆信とその子の松浦鎮信は豊臣秀吉に従い豊臣政権の下で近世大名としての道を確立した。江戸時代には江戸幕府の下で平戸を城下町として平戸松浦氏の平戸藩10万石を構え、改易されることもなく、明治維新まで続いた。

平戸家当主
松浦弘定
松浦興信
松浦隆信
松浦鎮信
松浦詮
以降は平戸藩を参照。

家臣
籠手田安昌
籠手田安経
籠手田安一

平戸系松浦家系図

渡辺綱

渡辺久
┣━━━━━━━━┓
松浦直      正(上松浦党)
┣━━━━━━━━┓
峯被       清(下松浦党惣領家)





(数代略)

勝(平戸勝)

義(平戸義)

豊久
┣━━┓
純元 純定
┣━━┳━━┓
興信 純次 栄

隆信

鎮信1

久信2

隆信3

鎮信4
┣━━━┳━━━┓
棟5   昌   篤信6
┃   ┃   ┣━━━┳━━━┳━━━┓
長   邑   有信7 誠信8   到   義信
     ┃       ┃   ┃   ┃
    鄰       政信   宝   良
             ┃   ┃
             清9   矩
         ┏━━━┫   
         皓    熙10
         ┃   ┣━━━┓
         脩   曜11  秋
                 ┃
                 詮12       

2009年01月21日

トリッピング

トリッピング
相手の足にスティックのブレードもしくは足を引掛ける。
ダイビング
トリッピングやフッキングに対するオーバーリアクション。(わざと転ぶ)
エルボーイング
肱をぶつける。チェックの際に当たる体勢によっては適用されやすくなる。
ニーイング
膝をぶつける。
ホールディング
相手の身体、スティック、ユニフォームなどをつかむ。
フッキング
スティックのブレードで相手を引掛ける。
スラッシング
スティックで相手選手の体を叩く。
ボーディング
チェックなどにより相手選手をフェンスに叩き付ける。フェンスとの間に挟むようにチェックすると適用されやすい。
ハイスティック
スティックのブレードを肩より高く上げる行為。チェックの際に行うとペナルティになる。相手選手が近くにいないとペナルティにはならないが、高く上げたスティックでパックに触れるとゲームを中断し不利な位置からのフェイスオフとなる。
バットエンディング
スティックの端(ブレードのとは反対)をぶつける。正しくスティックを持っている限り発生しない。小児のアイスホッケーではすぐ成長するとの理由から長いスティックをそのまま持たせることが多いため発生しやすい。
チャージング
ジャンプもしくは3歩以上移動してのチェック。パックを保持していない選手へのチェックはチャージングかインターフェアになる。
クロスチェッキング
スティックを相手にぶつけるようにチェックする。チェックする際にスティックを相手と反対に向けるようにすれば防げる。
インターフェアランス(インターフェア)
パックを保持していない選手の動きを妨害する。
クリッピング
相手の前にスライディングするなどして妨害する。パックを保持している選手に対して行なうと適用されやすい。
チェッキングフロムビハインド
背面からのチェック。
ラフィング
必要以上に強い力で、あるいは非常に荒っぽく相手をチェックする。乱闘の際に相手を殴ったときにも適用される。
フィフティカフス
乱闘。非常に危険なため自発的に行なった場合はマッチペナルティ。反撃した場合はメジャーペナルティだが乱闘しながらリンク外にでるとゲームミスコンダクト。
ツゥーメニーメン
6人より多いプレイヤーがリンク上に出ている反則。メンバー交代中に不測の事態が起って混乱すると、まれに起こる反則。
アンスポーツマンライクコンダクト
相手選手や審判、あるいは観客などに対して、暴言を吐いたり暴力を振るったりするなど、スポーツマンらしからぬ言動をしたときに適用される。
ディレードザゲーム
遅延行為。デフェンディングゾーンからベンチ上以外へのアウトオブバーンなどがあたる。
なお代わりの選手を投入できない場合も3人以上が退場している場合は投入できる。ただし代わりに出場した選手は反則退場していた選手がリンクに戻る時にはベンチに戻らなければならない。

用具
アイスホッケーを行うためには、さまざまな用具が必要となる。

スティック
スティックはブレード湾曲の向きによって右利用と左利用がある。GK用のスティックはブレード部分の高さが高いなど形状がかなり異なっている。

ボールに相当するパックは硬質ゴム製で薄い円柱形をしている。非常に固く、生身に当たると骨折等の危険がある。事実、NHLの試合で観客の少女にパックが当たり死亡するという痛ましい事故も起きている。

スケート靴
靴はラフなプレイから足や足首を護るように頑丈にできている。スピードより耐久性や小回りの利きの方が重要なため短く厚い刃が装着される。GK用の靴は脛に装着する防具があるためあまり目に見えないがプレイヤー用とは異なる。他のスケート靴に比べ怪我をしにくいようにできているがその分どうしても重くなる。しかし危険を減らすという性質が最も強く初心者でも悪い癖は比較的つきにくいのでスケートの練習には適している。なお、アイスホッケー靴によるスピード競技も存在する(GK靴部門も存在か?)といわれる。アイスホッケー用以外の靴を競技に用いるのは危険なため禁止されている。磨耗したり錆びたりした刃はプレイに不利なうえに危険なので定期的に研ぐ必要がある。錆の防止法は刃を乾燥させることが基本。研ぎ方を間違うと悪い癖のある靴になる。稀に新品などでも悪い研ぎ方をしていることがことがあるので靴を変えた時はいきなり試合などに使わずまず試しに滑走してみてから使うべきである。

防具
かつてのプロリーグなどではヘルメットを着用せずプレーする選手が多く、前歯を欠損した選手の写真なども残っている。しかし、ルールの項にもある通り競技には危険が伴うので必ず防具を装着する必要がある。無論、事故や怪我の防止が目的であるためプレイするうえで有利になることを優先して選ぶべきではない。防具にはヘルメット(目を保護するためにバイザーがついているものもある)、肩周りや腰周りのパットなどがある。また、靴も足と足首における防具の役割を担っている。粗悪な防具ではかえって負傷の危険が増す場合もあるので信頼できるものを選ぐことが大切である。ちなみに高校生以下の試合では、フルフェイス(顔の前面全てに保護をつけること)が義務付けられている。GKは、顔面を保護する機能のあるヘルメットを被り、手の甲や足に特殊なパッドを装着し、スティックを持たないほうの手にはパックをキャッチするためのグローブをはめる(野球で用いられるファーストミットに似ているが、サイズはこれよりも大きい)。基本的に防具も靴もGK用のほうが頑丈に作られているが背中を見せることのないGKの性質上後部はプレイヤー用のほうが強固に作られている。

アイスホッケーは、スポーツ競技の中でも女性の間に最も急速に普及した競技のひとつともといわれている。男子ホッケーに見られるような、体系的なリーグ組織の編成までには至らないものの、最高レベルの1999年に創立されたNWHL (National Women's Hockey League) やオリンピックチームからレクリエーション目的のチーム等が見られる。

女子と男子の競技における相違点としては、前者ではボディー・チェックが認められていないことがある。これについては、1990年の女子世界選手権以後、各国の参加選手の体格差に配意してこれを禁止する措置が採られたといわれているが、フィジカル・コンタクトというアイスホッケーの醍醐味を失わせるものと批判する意見もある。

ところで、女子選手では Manon Rheaume が NHLのプレシーズン・マッチでタンパベイ・ライトニングのゴールを守ったという記録が残されている(対戦相手はセントルイス・ブルース)。また、2003年には Hayley Wickenheiser が、フィンランドの Suomi-sarja リーグにおいて、Kirkkonummi Salamat と契約し、男子選手に混じってリーグに参戦したことがある。

日本のアイスホッケー事情

冬季オリンピック
男子は過去8回出場。開催国枠で出場した長野オリンピック以降は、ソルトレイクシティオリンピック、トリノオリンピックは出場権を得られていない。女子は長野オリンピックから公式競技となり日本は開催国枠で出場した。

1936年 ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック 9位タイ
1960年 スコーバレーオリンピック 8位
1964年 インスブルックオリンピック 11位
1968年 グルノーブルオリンピック 10位
1972年 札幌オリンピック 9位
1976年 インスブルックオリンピック 9位
1980年 レークプラシッドオリンピック 13位
1998年 長野オリンピック 男子13位 女子6位

日本アイスホッケーリーグ
日本アイスホッケーリーグは1966年(昭和41年)に5チーム(西武鉄道、王子製紙、古河電工、岩倉組、福徳相互銀行)でスタートした。日本の全国規模の社会人スポーツリーグではプロ野球、社会人サッカーに次いで3番目、ウィンタースポーツとしては初のリーグ戦だった。

1972年(昭和47年)に福徳相互銀行が廃部になったが、西武鉄道を分割し国土計画(現・コクド)を設立し、チーム数を維持した。1974年(昭和49年)に十條製紙(現・日本製紙クレインズ)が加盟し、6チーム体制となる。1979年に岩倉組が廃部となるが、雪印がチームをそのまま引継いだ。

リーグ戦開始当初は5チームによる2-3回総当り(年度による)で行われたが、その後リーグのレベルアップを図るため1981年シーズンから6回総当りに変更したが、優勝チームが圧倒的な強さを見せ付ける傾向からリーグ戦の終盤の試合の質を落とす懸念を考慮し、1990年からプレーオフ制度(すべて5戦3勝制)をスタートさせる。これは6回戦総当りのリーグ戦を予選リーグとし、その上位3チームで争う仕組み。原則として1位は決勝戦へ、2位と3位は準決勝を争って決勝進出チームを決める。ただし3位のチームは1位のチームからみて勝ち点10以上の差が付いた場合にはプレーオフ出場資格を失い、1位と2位による決勝戦のみ行うというものだった。

さらに1994-95年シーズンと1995-96年シーズンの2回はJリーグ方式の2ステージ制を導入。6回総当りを前期・後期各3回に分け行い、それぞれのステージ1位のチームが決勝戦(5戦3勝制)を戦う。(同じチームが1位となった場合はそのチームの優勝)

1996-97年シーズン以後再び1シーズン制に戻し、プレーオフも上位4チームに出場枠を変更。1位と4位、2位と3位が準決勝を行い、その勝者同士で決勝戦を行う仕組みにした。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

1999年(平成11年)には古河電工が廃部となるが、クラブチームHC日光アイスバックスを設立しチームを引継いだ。2001年(平成13年)には雪印が廃部となるが、クラブチーム札幌ポラリスがチームを引き継ぐ。しかし札幌ポラリスは運営資金不足などを理由に僅か1年で休部となり、2002年シーズンは28年ぶりに5チームでのリーグとなる。さらに2003年(平成15年)に西武鉄道が廃部となり、コクドに一本化されチーム数は4チームとなった。

リーグ戦はこれに伴って1シーズン制+決勝トーナメントの方式から8年ぶりに2シーズン制(8回総当りを前・後期各4回ずつに区切る。各ステージの1位チーム同士で5戦3勝制のプレーオフを行う。ただし、同一チームが1位となった場合についてはそのチームの年間優勝となり決勝戦は行わない)に変更された。

コクドのほか、HC日光アイスバックス(旧・古河電工)、王子製紙、日本製紙クレインズが参加している。フジテレビジョンで放送された「月9ドラマ プライド」の影響で観客動員数が一時的に増加したが、ドラマのクライマックスと重なる3月に予定していたプレーオフがコクドが前後期とも1位となったため開催されなかったこともあり、短期的な現象に終わった。

2003〜2004年シーズンからは日本リーグとは別に韓国のチーム、ハルラ・ウィニアを加えた5チーム(4回総当たり)で「アジアリーグアイスホッケー」を開催した。北米2カ国(アメリカとカナダ)をまたぐNHLを範にとり、アジア各国の強豪チームを集結させた大会を目指しており、2004〜2005年シーズンからアジアリーグに3チームが新規加盟し規模が拡大されたことにより日本リーグは休止となった。

大会の仕組等はアジアリーグアイスホッケーの項目を参照していただきたい。

2005〜2006年シーズンより、日本アイスホッケーリーグは北海道と西日本の地方リーグとして復活した。
日本アイスホッケーリーグ北海道(通称:J-ice North)には札幌アイスホッケークラブ(旧札幌ポラリス)、釧路厚生社、タダノアイスホッケークラブ、05-06シーズンのみYONH.COM(ヨンエイチドットコム)06-07シーズンからセトルブレイズの4チームが加盟。
05-60シーズンは1回総当たり、06-07シーズンはホーム&アウェーの2回戦総当りのリーグ戦である。
また、日本アイスホッケーリーグ西日本(通称:J-ice West)にはサーパス香川アイスホッケークラブ(旧サーパス穴吹)、兵庫県選抜、福岡県選抜の3チームが加盟。
05-06シーズンは2回戦総当たり、06-07シーズンは主催団体の使途不明金疑惑に伴い縮小され1回戦総当りで、このリーグ戦の優勝チームは日本のトップディヴィジョンであるアジアリーグで2006-07年までダブルフランチャイズながらも関西圏から参加した日光(神戸)アイスバックスと対戦できる。

大学アイスホッケー
大学におけるアイスホッケーリーグは各都道府県連盟に加盟する大学チームを地域に編成して行われている。

大学日本一を決定する大会は1926年より開始された日本学生氷上競技選手権大会である。

この大会以外では各地域ごとにリーグ戦やトーナメント戦が開催されている。しかし、日本学生氷上競技選手権大会でほぼ毎年関東の大学が優勝していることから関東大学アイスホッケーリーグ戦(1部リーグ)と関東大学アイスホッケー選手権大会(Aグループ)は実質的に大学日本一決定戦となっている。日本学生氷上競技選手権大会・関東大学アイスホッケーリーグ戦(1部リーグ)・関東大学アイスホッケー選手権大会(Aグループ)の3大会で優勝するとスポーツ新聞では「大学三冠」と報道されることが多い。

大学アイスホッケーは黎明期から早稲田大学と明治大学が中心として動いており、この二強の牙城は高く、他の大学は崩せない状況が続いた。この早明2強体制に対して、1960年代後半から法政大学が頭角を現し、早明法の3強へ移行、1996年から東洋大学が日本学生氷上競技選手権大会6連覇を達成すると4強体制となっている。現在は早明法洋に加え中央大学の5強が群を抜いている。これを追って第二グループに慶應・日体大・専大・大東大・日大などの大学が続き覇権(日本一)を争っている。

関西の有力校は、同志社大学・立命大・関西大学・関西学院大学・京産大・龍谷大などがあり、なかでも関西大学は2005年に同志社大学を21年ぶりに破りリーグ制覇し、2006年に大学としては日本初の屋内アイスアリーナを高槻キャンパスに建設するなど、全国の注目を集めている。

2009年01月14日

も〜っと! おジャ魔女どれみ

成長をテーマにした作品。2001年2月4日から2002年1月27日にかけて全50話(4クール)が放映され2001年7月14日に劇場版1作品が公開された。次回予告の決め台詞は「元気にクッキー! 魔法のレシピ、教えてあーげる!」オープニング・アイキャッチの変更はともに第31話から行われた。

ハナちゃんを救うために、魔女の証である水晶玉を割ってしまい、再びただの人間に戻ったどれみたち。魔女の子供は満1歳になると育ての親と離して魔女幼稚園に預けさせるという魔女界の掟により、ハナちゃんとも離ればなれになってしまった。

小学5年生となったどれみたちは女王のはからいによって再び魔女見習いになり、新しい仲間の飛鳥ももこを加えて、魔女界の元老たちに魔女になる事を認めてもらうために、今度はお菓子作りにチャレンジする。またクラス替えによって新たなクラスメイトが多数登場し、彼らの抱える幾多の悩みを共に乗り越えていく。彼女たちの奮闘もあり、育ての親も定期的に子供たちと面会が出来るようになった。

また、ハナちゃんは魔女幼稚園で寄宿生活を送っていたが、シリーズ中盤になって先々代の女王により、魔力の源である野菜を嫌いになる呪いをかけられてしまう。再びハナちゃんを引き取ったどれみたちは、野菜嫌いを治して魔力を取り戻させるために試行錯誤する。

どれみたちは最終的にすべての元老から魔女になる事を認められ、ハナちゃんの野菜嫌いの呪いを完治させた。そして、人間界での哀しい思い出から負の感情を暴走させていた先々代の女王様をも助けようとしたが、負への暴走を止め呪いの森を消しはしたものの完全には消せず、彼女を完全に救うことはできなかった。しかし、どれみらはいつか先々代の女王様を救うことを誓うのだった。

またこれが放送中の時、交通安全をテーマにしたビデオが2本発売された(いずれも非売品)。1本目は、「おジャ魔女どれみの交通安全(脚本 - 大和屋暁、演出 - 岩井隆央、作画監督 - 青山充)」、2本目が、「おジャ魔女どれみの自転車安全教室(脚本 - 大和屋暁、演出 - 岩井隆央、作画監督 - なかじまちゅうじ)」である。

テレビ東京が本作の同時間帯の裏番組として『超GALS!寿蘭』を投入したが、あえなくどれみに視聴率面で惨敗した。MAHO堂がお菓子屋になったことから、作中にお菓子のレシピが多数登場した。

『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』
卒業をテーマにした作品。2002年2月3日から2003年1月26日にかけて全51話(4クール)が放映された。次回予告の決め台詞は「ピュアピュアドリームでっかくそーだて!」オープニング・アイキャッチの変更はともに第31話から、エンディングの変更は第14話からと第31話からの2回行われた。なお、アイキャッチは5種類が用意された(第1話?第30話・前半のみ)。

ハナちゃんはどれみママたちと一緒に小学校へ通いたいがために、自らのすべての魔力を使って急成長してしまい、水晶玉を割って魔女の資格を失ってしまった。小学6年生になったどれみたちは、ハナちゃんが魔女に戻れるよう修行を手助けすることになる。そして魔女界の女王様は、晴れてハナちゃんが魔女になったときには、どれみたちを魔女にすることを約束した[54]。

一方、先々代の女王は自らが人間界で味わった辛い思い出から生まれた「悲しみの茨」に捕らわれたまま眠り続けていた。どれみたちは、先々代の女王の悲しみを癒す方法を見つけるために試行錯誤を繰り返すが、茨は次第に成長し、深い悲しみが魔女界や人間界を覆い、皆の気力をなくさせ始めてしまう。そうした幾多の苦難に加え、小学校卒業を前にそれぞれの複雑な家庭事情や将来のことについても悩み、答えを見つけ出していくどれみたち。

何とか悲しみの茨を消すと先々代の女王は目覚め、魔女ガエルの呪いも解かれた。無事課題を解決したどれみたちは、改めて魔女となるかどうするかの選択を迫られる。しかし、魔女となって魔女界に渡ることより人間界にとどまることを決意。ハナちゃんは次期女王の最有力候補として魔女界で研鑽につとめ、ともに魔女界と人間界が再び交流できるようになる日を目指すことになった。また、これに伴いマジョリカもMAHO堂を店じまいし、ララや妖精たち、そしてハナちゃんとともに魔女界へと帰っていった。

『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』
どれみ達の小学5年生の時のないしょの話。よって時代設定は「も〜っと!」で、見習い服やキャラクターの設定については基本的に「も?っと!」のものである。パーフェクト・チョイス(PPV)で、2004年6月26日から2004年12月11日にかけて全13話が隔週で有料放映された。また地上波では朝日放送(ABC)はじめ一部のテレビ朝日系列局や、関東地区の独立UHF局でも放映されている。後にDVD化。次回予告の決め台詞は「ノートの端っこつまんで破いて秘密のお手紙回しちゃお!」

どれみたちやクラスメートの、誰にも話せない秘密の話や意外な話、ほろ苦かったり切なかったりする話が語られる外伝的なシリーズ。TVシリーズと違って続き物になっておらず、完全なオムニバス形式をとっている。魔女界に関することは一切描かれていない。OVAとして扱われる場合が多い。

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