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家康は上杉領内を五箇所から攻撃することを

6月2日に東北・関東・北陸の諸大名に出陣を命じた。北の米沢口に最上義光・南部利直・戸沢政盛ら、北東の信夫口に伊達政宗、西の越後津川口に前田利長・堀秀治・溝口秀勝・村上義明ら、南東の仙道口に佐竹義宣を当て、家康は西国諸大名と共に南の白河口より一斉に攻め込む体制を採った。6月15日家康は秀頼より金2万両と兵糧2万石が下賜されて、秀頼の命を奉じる形で翌16日に大坂城を出陣、一旦伏見城に入った。この時の家康の様子を侍医である板坂卜斎は『慶長年中卜斎記』において次のように記している。
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千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌能く四囲を御ながめ、座敷に立たせられ、御一人にこにことお笑ひ御座なされ候。
家康の悲願である天下取りが現実のものになりつつある状況に、満足している節が伺える。この後鳥居元忠・松平家忠・松平近正らに伏見城守備を命じ、さらに山科まで見送りに訪れた島津義弘にも伏見城守備を依頼して江戸へと下る。一方佐和山城に蟄居していた三成は家康が江戸に下るとの報を受け、家康留守中を狙って挙兵し、西国大名を糾合して家康を討ち果たす決意を固め、動き始める。だが家康は天下奪取を果たすため反対派を一掃するべくわざと会津征伐を起こしたとも言われており、三成は敢えて家康の罠にはまったとも見られる。

また上杉景勝も、常陸の佐竹義宣と秘密同盟を結んでおり、白河口より攻め込んでくる家康を挟撃する計画があったとされる。他にも、会津領内の浪人などを雇ったり、会津神指城の築城や急速な各城の補強工事など、攻めよせる家康軍への迎撃体制を整えていった。

いずれにしても、家康の会津征伐によって戦局は風雲急を告げ始めた。

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2009年05月29日 07:59に投稿されたエントリーのページです。

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